生物学主義の場合には、「ヴァイタリズム(生気論)の断固たるチャンピオン」(カッシーラー『人間論』といわれたユクスキュルのように、生命を自律した実在と考えたり、生命のオートノミー原理を唱えたり・・・
あるいは現代生物学のように情報伝達の面を過度に強調したりすることになります。
いずれも、ヒトの再定義を行なったわれわれの立場からすれば、一面的です。
ヒトはエネルギー体であると同時に情報伝達媒体、つまりはインフォメーション・メディアでもあります。
カッシーラーは書物のなかで、人間を「理性をもつ動物」に代えて「象徴を操る動物レと再定義すべきことを説いています。
そのかぎりでは「情報の送受を行ないうる」という契機と多分に重なるけれども、しかしもう一方の契機である「エネルギー体」という規定のほうには遠く届いていません。
カッシーラーの時代にはまだ、「人間」をエネルギー体に分解還元してまで「人間とは何か」と問う必要がない程度には人間が人間でありえたのです。
しかし今日では、エネルギーを質量の変換態とみなす現代物理学の知見を踏まえて、ヒトにもこの考えを適用することが自然の発想となります。
「粒子的実存は本質的にエネルギー的性格を有する」(バシュラール)とすれば・・・
いまやヒトをもそういう意味での「粒子的実存」とみなすのがふさわしい人間状況にあるわけです。
バシュラールもいうように、「物と運動との間の最も有効な連結線を形づくるものはエネルギーの概念なのである」物が運動するだけでなく逆に運動もまた物になるという観点から流動と固形の相互変換メカニズムを考えようとするとき・・・
エネルギーの概念は、それら両者を連結する中心概念となるのです。