同じくエネルギー供給源といっても、ただのエネルギー体現物たとえば乾電池と「人間」とでは違いがあります。
「人間」は目的意識や欲求にもとづいて判断や選択を行ないます。
この点が通常は「人間の人間たる所以のもの」とされ、「人間の主体性」と呼ばれもします。
しかし、すでに確認しておいたように、このような「主体性」概念はもはやむなしいもの・・・。
「主体性」はむしろ単なるエネルギーの〈流れつけ〉に役立っているにすぎません。
乾電池やバッテリーは自分の意思で組織体や動員系の一環を担うことはできませんが、「人間」という名のエネルギー供給源は"自分の意思"でエネルギー・ネクサスの一環を担うことができます。
そこになおも「人間の主体性」をみようとするのは勝手ですが、"自分の意思"といっても実は自分の意思などではありえません。
日々巨大な奔流に押し流されつつみずからも流れの一部をなしているにすぎないのです。
「主体性」はいまやそういう流れつけの担い手としての役割を示す言葉以上のものではありません。
「人間主体」は死んだのです。
「人間主体」の名で語りうるような、自律性ある存在など、もはやどこを探してもありません。
こういうエネルギー関係論を打ち出して何をいおうとしているのでしょうか。
それは組織論とどう関連するのか・・・。
それらの点については整理とまとめを行なうことをお約束して、ここではいましばらく、込み入った、やや未整理な議論にお付き合い願います。