1927年までには814人の入植者に許可が下りたのですが、実際に入植して開発に成功した人はわずか50人にすぎませんでした。
入植者達は、英国内で聞かされた甘い宣伝文旬に不満をぶつけ、中にはこれを根拠に補償金の支払いを受けた人もいました。
政府後援の移民による農地入植計画は莫大な費用をかけたわりに、当初期待したほどの成果は上げられないという不本意な結果に終わっています。
オーストラリア連邦がこれら1連の計画に投じた金額の合計は、1478ケ所の農地を造成するために投じた費用だけで14、000、000ポンド(28、000、000ドル)にものぼっています。
計画全体に投じた総経費と比較して、その業績があまりにお粗末であることに疑間の余地はありません。
ある歴史家はこう批評しています。
期待された入植者の多くは、英国の堅実な中産階級の出身です。
彼らには、オーストラリアに行けば1財産築くことができるという話を信ずるに足る正当な理由がありました。
ある開拓者は、入植の経緯を次の様に語っています。
「夫は兄弟と共に、英国内でも商売を軌道にのせておりました。
私共は家具や食器を始め、あらゆる家財を売却し、夫達はケントの町に新たに2軒の店を手に入れたのです。
私にはオーストラリアへ行きたいなどという気持はありませんでしたのですが、夫は息子達にもっと別の生活を、広々とした環境の下での生活を送らせたいと願ったのです。
その上、オーストラリアには明るい未来があるなどという誇大広告もありました。
未経験者は講習を受けられるということでした。
そこで私共はあり金すべてを残して商売をたたみましました。
新生活を始めるにあたってはお金を用意しなくてはなりませんでした」。